私たちは日頃お世話になった方々へ年賀状を書きます。中にはそれと合わせてクリスマスカードも作って、親しい友人、知人、会社の取引先に差し出する方もおられます。「メリークリスマス。静かなクリスマスをお過ごしください。幸福を祈ります」というように、親しい人々への挨拶をします。すっかり世界的にお馴染みになったクリスマスですが、「メリークリスマス」という挨拶はキリスト教色が強いから、挨拶文としては気をつけるようにと教えてくれたサイトもありました。 クリスマスが「メリー」(陽気な、お祭り気分な)なのかどうかはわかりませんが、心より湧き上がる喜びがあふれるひとときではあります。 聖書には、神のひとり子イエス・キリストがお生まれになり、私たちの救い主として地上に来てくださったと書かれています。旧約聖書にはこのイエス・キリストのことを「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」方である…と、何とイエスがお生まれになる700年前から予告されていました。教会では、イエスが文字通り私たち人間の「助言者、神、父、君」となってくださった、その喜びをクリスマスに味わいます。 私たちの教会は、すべての人に「イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスのひととき、心よりお喜び申し上げます」とご挨拶したいと思います。私たちの救い主、イエス・キリストから注がれる祝福が、すべての人に与えられることを心から願うからです。岸和田東聖書教会の12月は、クリスマスを祝う諸集会が催されます。みなさま、ぜひ当教会、また諸教会に足をお運びください。イエス・キリストとの出会いがありますように、みなさまのためにお祈り申し上げます。 岸和田東聖書教会 牧師・池田憲生 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は 『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』 と呼ばれる。」 聖書 イザヤ書9章6節
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人生の目的とは
(本メッセージは、2021年5月22日 ラジオ「福音の光」で放送されたメッセージの抜粋、改訂バージョンです。)
あなたの人生の目的は何ですか。かつては、いい大学にはいって、いい企業に就職して、お金を儲ける、などというのが、最善の生き方だと思われていました。私もそのように思っていた時期もありました。それでは、実際にそのようになり、お金をたくさん儲けるようになったら、あなたの「人生の目的」はそれで終わりでしょうか。あるいは逆に、これらのことが何一つうまくいかないということであれば、あなたの人生の目的は失われるということでしょうか。何か自分が定めていた目標が達成されたら、あなたの人生の目的も終わるのでしょうか。
あなたは自分のために生きていますか、それとも他人のために生きていますか。あなたが自分のために生きているなら、自分が健やかで物事がうまくいっていたら、それでいいでしょう。しかしもし、あなたが誰かに頼って生きていかなければならない健康状態になったら、あなたはどうするでしょう。また他人のために生きているなら、その人があなたの側にいる時には平安でしょう。しかしあなたの前からその人が消えたら、あなたは人生の目的を失うのでしょうか。例えば愛する人と死別したら、あなたは、ただ途方にくれて一生を過ごさなければならないのでしょうか。
ただ、自分のためではなく、他人のためだけでもない生き方があるとすればどうでしょう。教会は、まことの神さまのために生きるということをしばし語っています。神さまは永遠なるお方です。もし、永遠なるお方のために生きる望みがあれば、私たちの望みも永遠に続くのではないでしょうか。そういういつまでも尽きることのない望みを、イエス・キリストは私たちにくださいます。どうやって、その尽きることのない望みを、いただくことができるのでしょうか。その鍵は、イエス・キリストにあります。
イエス・キリストは、私たちに永遠のいのちを与えるために、ご自身のいのちを差し出されました。どうして、イエスは、私たちのために死ななければならなかったのでしょう。それは私たちの罪のためです。罪とは、まことの神さまから目を背け、まことの神さま以外のものを神としてしまうことです。ただ、それは犯罪行為に及ばなければよいということではありません。私たちの心の中に渦巻く人に対する嫉妬、敵対心、無関心、それらは神の御前に喜ばれない、りっぱな「罪」です。
私たちは、それらを心に秘めていたら、永遠のいのちに預かることはできません。永遠のいのちに心を留めていない人たちが多いですが、神のことばである聖書によると、人は例外なく永遠のいのちに預かる人と、永遠の滅びを味わわなければならない人たちとに分かれると示されています。もし、永遠の滅びに行ってしまうとなると、それこそ、人生の目的をどれほど崇高なものに打ち立てて、しかもそれを果たしたとしても、それは無駄に終わってしまいます。イエスは言われます。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」
人生を本当の意味で有意義で意味のあるものとするためには、永遠のいのちに預かる必要があるのです。そうするためには、まず、イエス・キリストのもとに来ることが大切なのです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に架かってくださり、永遠のいのちを保証するために、三日目によみがえられました。そして今も生きておられます。私たちに永遠のいのちを与えるためです。イエス・キリストを信じることによって、私たちは人生の本当の目的を見ることができるのです。あなたもこのイエス・キリストのもとに来てみませんか。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 イエス・キリストのことば
(ヨハネの福音書14章6節)
歓迎礼拝のご案内〜「ディア・ベスト・フレンド」〜
若葉に風香る今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか。この新緑したたる6月に、教会では、キリスト教や聖書になじみのない方に向けて、歓迎礼拝を開きます。今回は、特に聖書から「ディア・ベスト・フレンド」というテーマでわかりやすくお伝えしたいと思います。普段教会に通っていない方も、聖書が何を語っているのか、聞いてみませんか。ぜひ、お気軽におこしください。
日時 6月25日(日)午前10:30〜11:45頃
会場 岸和田東聖書教会
※入場無料
「人がその友のためにいのちを捨てるという、 これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(聖書・ヨハネの福音書15章13節)
あなたは、友をお持ちでしょうか。その友は、あなたのために命さえも投げ打って、駆けつけてくれる人でしょうか。太宰治氏の小説「走れメロス」は、麗しき友情物語が描かれている作品として有名です。
こんなお話です。暴君ディオニス王の圧政に怒りを覚え、王の暗殺を試みるが、捕らえられ、死刑宣告されたメロス。妹の結婚式のために、3日後の日没まで猶予を願い、その代わりに、友のセリヌンティウスが人質となった。3日目にメロスは王宮に戻ろうとするが、行く手を阻むあらゆる不運にあい、夕刻まで到着するのが困難な状況に追い込まれた。しかし、体力の限りに、メロスは走り続け、約束どおり到着し、セリヌンティウスを救い出すことができた。
昨今、インターネットが拡大する中で、このような麗しい友情物語を築くことの難しさが浮き彫りになっています。世界中の人々との距離を縮めようと試みて、ソーシャル・ネットワークサービスが充実してきました。しかし、どういうわけだか、これらのツールによる、陰湿な誹謗中傷、ことによっては犯罪が跡を絶えません。イエスが言われた通り、ますます人々の愛が冷えていき、自己利益しか考えることのできない時代となってきたりしているのです。
本当の友というのは、彼の友のために命を捨てる者のことだと、神のことばである聖書は語ります。その友というのは、イエス・キリストです。イエスは私たちの罪のために十字架に架けられました。私たちに罪があるというのは、いわゆる犯罪を犯したという意味ではありません。私たちに罪があるというのは、私たちを造られ、私たちを日々守られている創造主なる神さまから心離れていることを言います。まことの神さまから離れているから、私たちは様々な悲惨にあうのです。
私たちは罪あるままでは、この神の御怒りを受け、天国にいくことはできません。神さまを無視し続けた罪は償われなければなりません。しかし、イエス・キリストは私たちの罪のために、罪の償いのために、十字架に架けられました。そして、私たちのために死んでくださっただけではなく、よみがえってくださいました。こうして、イエス・キリストを信じる者が、ひとりとして神の御前に滅びることがないようにしてくださり、天国への道筋がイエスによって切り開かれました。
このように私たちのために犠牲を払ってくださるお方が、本当の友です。イエス・キリストは私たちのために友となってくださり、最上の友となってくださいます。ぜひ、このイエス・キリストと出会いを実現するためにも、教会に足をお運びください。誰よりも、イエス・キリストがあなたを待っておられます。
池田憲生(岸和田東聖書教会 牧師)